バチカン市国「サン・ピエトロ大聖堂」の内部を見学

イタリア編

クーポラ展望台ツアーから降りてきたら、そのままサン・ピエトロ大聖堂の内部の見学へ。

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サン・ピエトロ大聖堂の内部は、漢字2語で表すと「壮観」「荘厳」「圧巻」「荘重」「厳粛」「壮重」「厳威」「壮大」「崇高」、とにかく素晴らしく神々しい、心が洗われる気分になる。

 

サン・ピエトロ大聖堂が創建されたのは4世紀、現在の聖堂は2代目にあたり1626年に完成したものだそうです。

元々は、コンスタンティヌス1世により、「聖ペテロ」のものとされる墓を参拝するための、殉教者記念教会堂として建設されたものだそうです。

1626年は、日本で言うと徳川家光が3代将軍になった頃で、皮肉にも、長崎奉行水野守信がキリシタン弾圧の踏み絵を始めた年だと言われています。

 

ローマ教皇の座所となったのは1377年からで、教皇ニコラウス5世が立案したローマ復興の計画の一部として、大聖堂の再建も含まれていたそうです。

しかし、教皇ニコラウス5世の在位は8年で終わったため再建は頓挫、その後1499年に教皇アレクサンデル6世が改築を思い立ち、さらに1505年に教皇ユリウス2世によって改築の決定が行われ、次第に計画は大きく膨らんでいき、最終的に全面的に建て替える壮大な計画になり、1506年4月1日に起工式典が行われました。

1547年頃からは、一度は71歳という高齢を理由に断ったミケランジェロが、責任者として計画を推し進めることになり、無給で晩年の17年間を大聖堂建築に捧げ、後の計画変更で追加されたファサードを除けば、現在のサン・ピエトロ大聖堂の基本的な部分は彼の手によるものだそうです。

そして、キリスト教で新築の会堂を神にささげる儀式である「献堂式」が、1626年にウルバヌス8世によって行われ完成に至りました。

1506年の着工から、実に120年の年月をかけて建物が完成し、その後周辺整備や装飾にさらに50年が費やされ、気が遠くなるような一大事業でした。

サン・ピエトロ大聖堂は、120年の年月をかけた大事業に値する素晴らしい建築物であり、世界最大級の大きさを誇るキリスト教の教会建築で、中に入るだけでその美しさに圧倒されました。

 

ミケランジェロ設計のクーポラの下にあるのが、このジャン・ロレンツォ・ベルニーニ作の「ブロンズの天蓋」です。

列柱廊を持つ楕円形広場である「サン・ピエトロ広場」も、ベルニーニが手掛けたものです。

そしてこの「ブロンズの天蓋」の真下には、「聖ペテロ」のお墓があります。

 

「ブロンズの天蓋」の奥、大聖堂の一番奥には、これもベルニーニによる「聖ペテロの司教座」があります。

雲に浮いた「聖ペテロの司教座」を4人の教会博士が支えています。

 

色を明るくして、「聖ペテロの司教座」がよく分かるように加工してみました。

 

光の中にある「平和の鳩」も、少し加工してわかりやすくしてみました。

 

人が沢山写真を撮っている所を見たら、「聖ペテロ」の像がありました。

人が沢山いたので足の方は撮れませんでしたが、多くの人が右足をなでたりキスをしたりしているので、右足だけツルツルになっていました。

 

柱には、沢山の聖人たちの像が飾られていました。

 

「聖女ベロニカ」の像

キリストが十字架を負って刑場に向かう途中、顔をぬぐう布をささげたという伝説上の聖女です。

 

キリストはその布に面影を写して返したと伝えられており、布にはキリストの顔が見えます。

 

キリスト教を公認したコンスタンティヌス帝の母「聖女ヘレナ」の像

「聖女ヘレナ」はゴルゴタに巡礼し、キリストが磔になった十字架を発見し持ち帰ったとされています。

 

清廉潔白な人柄で贅沢を嫌った「イノセント12世」

 

ヨーロッパ列強とイエズス会の間で板ばさみになって苦悩した「クレメンス13世」

 

ラファエロ作「キリストの変容」の祭壇

 

ピエトロ・テネラーニ作「ピウス8世」

キリストの両脇に聖ペテロと聖パウロ、そしてキリストの前に跪いているのが「ピウス8世」です。

 

治世にずれが累積していたユリウス暦を廃し、グレゴリオ暦(現在の太陽暦)を採用した「グレゴリウス13世」

 

天井のモザイク画も美しい…

 

一番の見どころと言われている「ミケランジェロのピエタ」ですが、あまりにも見物人が多く、あとで写真を撮ろうと思っていたら忘れてしまいました…残念…

 

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